歴史:郷中での生活


郷中の組織

稚児(チゴ)小稚児:

六、七歳~十歳 


長稚児(オセチゴ):

十一歳~十四、十五歳

 

 二才(ニセ):       

十五、六歳~二十四、五歳の独身


 長才、長老(オセ、オセンシ):

二十四、五歳以上の先輩(妻帯したるもの)


 二才の中から二才頭が選ばれる。概ね郷中の最年長者が順次に選ばれるが、文武の道に秀で、才気徳望兼ね備えた者は、まだ年長者でなくとも、特に推されて二才頭になることもある。 二才頭は、二才はもちろん稚児についても、一切の事項を処理し監督して全責任を負う。すなわち郷中全般の支配に任ずるがゆえに、一名また郷中頭とも言う。その威望隆々として勢力は郷中を圧したのである。                

 

二才は二十四、五歳になれば通常郷中を去って、あるいは妻帯しあるいは役務を奉ずるようになる。これらの二才の先輩達を長才、長老という。長才達(オセンシ)は郷中を去ってからも機会があるごとに後輩たる二才たちを引見してこれを指導し、間接的に郷中に関係したのである。


郷中に起こった事件が、ひどく紛糾してその解決が困難である場合には、二才達はまず、若き「オセ」達に相談し判断を乞うのであるが、それでもなお処理に窮するときには、三十歳~四十歳の「オセ」たちに相談し、あるいはさらに五十歳から六十歳の長老の許をも訪ねて、適切な裁決を仰ぐこともあった。 このようにして郷中は、長幼打って一丸となって事件の処理に当り、自治団体たる面目を遺憾なく発揮したのである。

 

 

 郷中の若者の日課

稚児達は朝起きると直ちに、同じ郷中の中にいる先生の所へ書物を習いに行く。その講習は、一人一人先生の前に進み出て受けるもので、その順序はその家に到着した順序であるから、稚児達は我先にと駆けつけた。朝床を離れると直ぐに身支度をして、門の門敷居に片足かけた姿勢をして明け六つ(午前六時)の鐘を待っていた。稚児達は明けの六つから暮れの六つの間しか外出できなかったからである。講習は大体半下りばかりの文章について素読を習い、かつ暗誦する程度である。終わると直ぐ帰宅して朝食までは家にあって更に自ら復習し、あるいは家事の手伝いなどをする。これは小稚児にも長稚児にも通じる平生の日課の一番目である。

 

 〔小稚児の日課〕                                                     

小稚児達は朝食を済ませた後五つ(午前八時)を前に一定の場所に集合する。この時間を過ぎると罰せられる。そうして今日は運動は何をやるかという事を互いに相談する。その中で誰か主だったものが「なになに」と提案すると、「それがよろしかろう」ということで決まる。※運動とは山坂達者の欄で説明        およそ四つ時(今の10時)頃になると、運動はピッタリと止め長稚児のいるいわゆる復習座元に繰り込む。そのときは各々に行かず、必ず二列になって行く。ここでおおよそ二時間おって、復習や訊問が終わると一斉に席を立って家に帰って昼食をとる。 昼食後は、友人同輩を誘い出していろいろな運動や川遊び山遊びを行なう。七つ時になると打ち揃って撃剣場に行く。そこで二才から練習を受け、日暮れの六つ時まで続ける。そして戻れの命令があると各自家に帰宅する。以上が小稚児の課業で、六つ以後は外出は全く許されず、それが厳重に守られた。

 

〔長稚児の日課〕                                                      

まず朝起きるとすぐ先生のところへ講習に行き、帰って朝食する。四つの鐘がなるのを待って、門を出て、小稚児等と互いに誘い合って復習座元に集まり、そこで小稚児たちの先生となって、小稚児の復習を指導したり、生活上の行状のことを訊問して訓論したりして午前中を過ごす。夕食後は稚児頭の命に従って種々の遊戯をして、七つ時には稽古場で撃剣や柔道等を練習した。道場では長稚児も小稚児と同じく生徒であって、二才衆より型などを教えられ、また練習をつけてもらって暮れ六つ頃まで続ける。夕方には、二才衆が集まっている夜話の座元に出かける。ここでは二才が教戒したり、指導したりする。そして夜五つ時(午後八時)になると、二才衆が護衛して、銘々の稚児の家まで送り届けられる。

 

 〔二才の日課〕                                                       

二才に於いては稚児達のように昼間の課業は毎日は無かった。二才は自分の勤めを持っていたからである。二才の勤めには一家の家計を助ける意味も含まれている。というのは、御勘定座にでるか代官座に出ると、一年に米四石の扶持米を受けたからである。そこでこれらの両座は、貧窮士族の救援所のように考えられていた。これらの勤務は朝四つ時(午前10時)から昼八つ時(午後二時)までであった。勤務を持たないものは造士館(藩校)に出た。長稚児で造士館に毎日出席するものもいたが、その勉強は二才と同じであった。八つ時になると、勤務の二才も、造士館の二才もそれぞれ帰宅し、七つ時に剣道場へ行って、稚児達を一通り稽古をつけてやってから更にお互い同士で盛んに稽古を行なった。暮れの六つまで稽古してから止める。夜にはいわゆる夜話の座元が開かれた。しかしこの時間が、二才にとって最も愉快な時間であった。座元はやはり、郷中内の家を毎夜代わる代わる持ち回りであった。始めに長稚児を教育指導したり、詮議を見学させたりして、夜五つ時になると(午後八時)、長稚児達を各自の家まで送り届け、それから再び座元に集会して、更に軍書を講読した。二才の詮議は毎晩行なわないところもあった。別に式日の立っていたところもある。